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「排除と翼賛の論理に落選」「日経ビジネス」2006年8月21日号
およそ6年前、私は長野県の人たちから知事になって欲しいと請われました。当時の長野県は財政的にも末期的な状態で、明治初期の「お雇い外国人」として招聘されたようなものでした。
 その意味で、8月6日の長野県知事選挙の結果は敗北ではなく、投票に行った県民の過半数が田中康夫に頼らない選択肢を選んだということ。つまり、これから長野県民は自らを律する自主自律・自己責任の道を進むのです。別に、突き放して言っているのではありません。8月末に知事を退任した後も私は軽井沢町民であり、社会貢献していくことに変わりはありません。
 私が知事になったのは、信州・長野県を県民と一緒に良くしたいと思ったからです。県民への愛情がなかったら、給料を3割カットし、連日のように地元メディアから叩かれて、正直、割の合わない仕事です。それでも踏ん張ってきたのは、借金の山を未来の子供に残してはならないと考えたからです。
 でも、私とではない長野県の、次のステージを県民は選択した。投票に行かなかった人々も含めてね。無論、県民の中にも、あるいは県外に暮らす方々の中にも、結果を不思議に感じた人は少なくなかったでしょうが。
 あるホテル経営者が教えてくれました。大部分の人は、あなたの発想と行動を学ぶ前に、自分には及びもつかないと感じるや拒絶し、自分たちの村社会を守ろうと、排除と翼賛の論理に陥ってしまうのだ、と。嬉しいような哀しいような思いです。


□ 災害で神の采配感じた

 今回、対立候補の村井陣営はガチガチの組織選挙を展開しました(編集部注:元衆院議員の村井仁氏は、自民党長野県連、公明党長野県本部、連合長野などの推薦を受けた)。私の選挙は個々人の連帯で、みんながボランティア。お金や組織とも無縁で、究極の草の根選挙と言える。それでも53万4229もの票が集まったのは、日本の選挙として空前絶後でしょう。
 告示日直前、県内各地で豪雨災害に見舞われました。私が災害現場で陣頭指揮を執ったので、選挙戦は後半の8日間だけでした。それでも全国4番目の広さの県土を6000km走破し、81市町村全てを回りました。
 田中康夫の原点は、阪神・淡路大震災の際に神戸で避難所やテント村を支援した活動にあります。選挙直前に災害が起きた際、後ろ盾のないか弱き人々に奉仕する原点に戻れ、と神の采配を受けたのだと感じました。
 市町村が設置した各避難所に、県からも即座に職員を泊まり掛けで派遣しました。これまでの経験から、赤十字の毛布しかないだろうと布団や枕を県で用意しました。
 土石流に見舞われただけでなく、諏訪市でも500軒以上が床上浸水しました。県職員を1500人体制で2日間、個人宅に派遣し、被災者と一緒に家財道具を運び出したりしました。使えなくなった電化製品は、無料で県が引き取り、処理しました。
 「脱ダム」宣言の発祥地である下諏訪町、岡谷市を含め、被災した地域での私の得票率は、いずれも6割前後でした。被災地でこそ、脱ダムの精神が理解されているのを私はありがたく思います。実は、宣言を受けてダム建設を中止した砥川(ルビ:とがわ)では、地道な河川改修や上流の森林整備などが功を奏し、今回の災害でも無事でした。
 遊説の中で特に印象に残っているのは、最終日となった土曜日の夕方に回った公営団地での光景です。「いよいよ明日は投票日。私たちの未来を決める日です。後戻りしない福祉と医療。田中康夫です」と語り掛けると、お年寄りが上層階のベランダから手を振ってくれる。小さな子供が母親と一緒に1階の入口でピョンピョン跳ねていました。
 それを見た瞬間、「こうした後ろ盾のない人たちに奉仕する道を歩めと、自分は運命付けられているのだ」と、改めて実感しました。福祉や権利を声高に語る既存の政党や団体の庇護すら受けていないであろう人の哀しみや憤りを、共に喜びへと変えていかねばならないのです。
 知事選の結果が出てから3日半で、1000通以上のメールが私に届きました。揶揄しているのは僅か5、6通で、残りは「よくぞ孤立無援で長い間、耐えてくれた」、「同じ県民として気恥ずかしい」といった内容でした。今度は大阪で既得権益と闘って欲しい、といった県外からの声援もありました。


□ 対立が悪いのか

 田中県政は対立ばかり、と言われてきました。でも、私が知事に就任する前の41年6ヶ月間、県議会で予算も条例も人事も、1つとして否決や修正はされていないのです。私が知事になってからは日常茶飯事です。すると、マスメディアは「混乱」「停滞」と報じる。では、しゃんしゃん議会が正常なのか。
 今回の選挙で長野県も加わって、全国の知事47人のうち6割以上が霞ヶ関や永田町の住人出身となりました。オール与党体制の議会が推薦した、据わりの良い知事との蜜月関係です。私同様に、県民1人ひとりが選んだ高知県の橋本大二郎知事や、この間まで宮城県知事だった浅野史郎さんも、議会とは常に一発触発状態でした。
 政官業に御用学者や報道機関も含めた「政官業学報」の現状追認ペンタゴン。彼らが依拠する既得権益を溶かしてきたのが田中康夫です。
 福祉・医療、教育、環境、観光の分野こそは、人が人のお世話をして初めて成り立つ21世紀型の労働集約的産業だと唱え、予算を傾注投資してきました。大型公共事業は、県外ゼネコンの懐を潤わせるだけ。地域でできることは地域の企業や人々と共に、をモットーに地域密着型の公共事業への転換を進めてきました。
 その方向性や中身は、現状追認ペンタゴンの彼らも否定しにくい。そこで、手法が独善的だと、戦前の修身の授業のような批判を繰り返してきたのです。
 ある全国紙で「大人になれなかった田中知事」という趣旨の社説を拝見し、思わず苦笑してしまいました。大人になるってどういう意味なのか。守旧派と組めという話なのか。そんな政治だから、有権者は愛想を尽かしているのではないでしょうか。
 尊敬する白洲次郎氏(編集部注:吉田茂内閣時に初代貿易庁長官を務め、戦後復興などに活躍)は、「子供に慕われる大人の悪ガキでありたい」と述べています。建前と本音の偽善性を鋭く見抜くのが子供です。ガラス張り知事室前に夏休みの少年少女が遊びに来るのは、私の誇りでもあります。
 選挙期間中だけでなく、知事を務めたこの5年10ヶ月間、「借金の山を未来の子供に残してはならない」と訴えてきました。
夕張市同様、財政破綻寸前だった長野県は全国唯一、5年間連続で借金を減らしてきました。その額は923億円に上ります。プライマリーバランス(財政の基礎的収支)は、就任年度の2000年から7年度連続で黒字化を達成してきました。
 加えて、昨年度は自治体の貯金に当たる基金を1円も取り崩さず、一般会計で42億円余の黒字を生み出し、基金を積み増しています。長野県にとって、これは16年振りの快挙です。
 この6年間、不要不急の起債を抑制してきた結果、これからの4年間は誰が知事を務めても、毎年400億円ずつ借金が減ります。しかし、油断すれば4年後には元の木阿弥です。
 別に、財政改革が目的だったのではありません。小学6年生までの30人規模学級を既に実現し、小学校入学前の全ての子供の医療費を今年から無料化する上でも、持続的な財政運営が不可欠だったのです。
 この僅か5年間で、国全体の借金は250兆円も増えました。そのため国はありとあらゆる社会福祉を切り捨て、地方交付税も激減させてきました。人件費も含めた今年度当初予算が8250億円の長野県も、僅か3年間で地方交付税などが540億円も削減されているのです。これは、全国どこの自治体も同様です。こうした中、社会福祉を充実させ、環境保全を促進してきたのが、この間の信州・長野県でした。
 それなのに、借金は地域の宝だとか、国から金を引っ張って公共事業を進めれば良い、といった時代錯誤な言葉を囁(ルビ:ささや)く候補者に1票を託す県民が過半を占めました。ソクラテスの昔から2500年、民主主義は難しいものです。


□ 職員は変わってきたが・・・

 行政の速度感覚は遅すぎます。製造業であれば、消費者の求めに応じて商品を開発し、不具合があったら即座に改良する。当たり前の話です。
 しかし、行政は一旦決めたら手直ししません。特に公共事業は、ブルドーザーのように計画を推し進めていく。その利権構造の中で、官僚や役人以外の世界から就任した大部分の知事は、妥協してしまうのです。
 私が脱ダム宣言を発した時も、「国に巨額の補助金を返還する事態になりますよ」とか、「推進派の住民から監査請求が殺到しますよ」と当時の幹部職員から警告を受けました。でも、そんな展開にはなりませんでした。
 就任した日の部長会議で、「私たちは県民に奉仕するサービス産業に従事している喜びを抱こう」と挨拶したら、今回、村井陣営に集っている当時の幹部職員から文句が出ました。「われわれはサービス業じゃない」、「産業だなんて呼ばないで欲しい」と。
 人に奉仕して喜んで頂く。こんなに崇高な仕事はありません。行政とは総合愛情産業、総合奉仕産業なのです。無論、自分がすることは相手も喜ぶに違いない、などと思い込んでいては、しっぺ返しを食らいます。相手の目線に立って、しかも、相手を甘やかすことなく、共に成長していく。そして、「ありがとう」の言葉を、お金に換算出来ない心のチップとして受け取る。
 嬉しいことに、この6年近くで職員の意識改革は随分と進みました。誰もがフルネームで名乗って電話の応対をします。部長も課長も、直ぐに現場に飛んでいくようになりました。
 とは言え、同じ公会堂で、同じ曲目を、同じ演奏者で演じても、指揮者が変わればオーケストラの奏でる音色は、まるで異なる具合となります。県政も知事という指揮者が変われば、そうあるべきなのです。それは、田中康夫からの自主自律を選択した県民の願いでもあるのです。
 私の就任時には「行政の継続」こそ重要だと、新機軸を打ち出す毎に当時の幹部職員から抵抗されました。新知事は官僚出身ですから、エイリアンだった私の発想や行動に戸惑った当初とは違って、県職員も彼の流儀には馴染み易いでしょう。


□ 求められる場所へ

 思えば田中康夫はデビューから25年間、ストーリーテラーとしてはそれほどでもなかったものの、常に街の空気を嗅ぎ取り、時代を読み取ってきました。
 渋谷の公園通りで若い女性から「キャッ、康夫ちゃ?ん」と声を掛けられたとします。活字に起こせばミーハーな田中ファンの発言となりますが、小馬鹿にしている場合だってある。逆に、「おいっ、田中」と濁声(ルビ:だみごえ)を発したウンコ座りのチーマー軍団が、実はお前だけは体制に負けるなよ、と声援を送っている場合もある。
 日々、その微妙な空気、言葉と表情を感じて私は生きてきたのです。人を信ぜずして、誰が他者への奉仕などできますか。私は、人間としての体温を持った私利私欲なき政治家でありたい。
 今回の転機も、次なる田中康夫が求められているのだと、前向きに捉えています。現場主義・直接対話を重視して、たくさんの改革を信州・長野県で実行してきたつもりです。しかし、自治体単独で行えることは限られてもいるのです。
 フランスのジャック・シラク大統領が、かつて国会議員とパリ市長を兼務したように、ヨーロッパでは中央と地方が上下の垂直構造ではなく、水平協働・水平補完の関係です。地域の現場での発想と実践を踏まえて、頭でっかちな霞ヶ関や永田町の論理を超え、戦後61年で疲弊した日本全体の制度や仕組みを根底から作り直す必要がある。「新党日本」を地域政党として昨夏に立ち上げたのも、そうした思いからでした。
 落選が決まってから全国に生中継された私の会見を見た幾人もの記者から、「こんなに悲壮感が漂わない会見は初めてだ」と言われました。私は、6年前の選挙ポスターに「信念と行動力の人」と記しました。これまでも、そして、これからも、「怯まず・屈せず・逃げず」の気概を抱いて、人から仕えられるのではなく、人々に奉仕する存在としての人生を歩む覚悟です。
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